エクスタシー中毒だった私。
「あなたが最もエクスタシーを感じる瞬間を教えて。」
そう聞かれたとき、心の奥の方がぎゅっと握られたような感覚がして、私ははっとした。
あなたにとって、最もエクスタシーを感じる瞬間は何?
私にとってのそれは、「共感と刹那」だった。
つまり、強い喜びや哀しみの共有や想起、そして「もうこの瞬間は二度と戻ってこないんだ」という感情で全身が包まれ、我を忘れて浸ってしまうとき。
それは、
初めての修学旅行から帰ってきて、夕方、小学校の校庭でりさちゃんと泣きながら抱き合ったあの瞬間。
アメリカでホストファミリーとの別れが永遠の別れのように思えたあの夜。
クララを踊りながら、フィナーレの音楽が始まってしまったとき。
2年半の留学を終えて、日本に帰る飛行機の窓から見たジュネーブの街並み。
そして、全てを捧げてきたバレエ人生にピリオドを打とうと決意したあの瞬間。
それは感動という言葉なんかじゃ物足りなくて、まさにエクスタシーだった。
はっとした私は、気づいたんだ。
今まで、エクスタシーの虜になり、薬物依存的にエクスタシーを追い求めていたことを。それでも全然見つからなくて、一人ずっと苦しかったことを。
私にとってのエクスタシーは、どこにあるの。
何をやっても、「違う、これじゃない。」と思い、そのたびに別の場所へ行き、あらゆるものを試してみた。
その経験は今の私自身を醸成している大切な経験だけれど、エクスタシーとはかけ離れていた。
見つけられず、でも諦めることもできなかった。
よく、夕暮れ時の空を眺めながら過ごしていたのは、今考えると黄昏にエクスタシーを求めていたのかもしれない。
私は、2015年の夏に初めてスマートフォンを持ち始めたんだけど、本当はスマホに変えたくなかった。ずっとガラパゴス携帯が良かった。
理由は自分でも分からないけど、とにかく流行に逆らいたかった。
どんどん進むIT化に不安を覚えていたし、あえてアナログな生活を求めていた。
(スイスに留学している時期にLINEが流行り出したんだけど、私はずっとLINEをインストールしたくなくて、ついにインストールした時に友達に歓喜されたのを覚えてる。)
今考えるとそれは、エクスタシーを味わえるチャンスがどんどん奪われていくのが怖くて、私なりの必死の抵抗だったのだと思う。
だって、スマホを持ってしまったら、いつでもどこでも誰とでも繋がれてしまうでしょう。
私はそれが嫌だった。
どうして自分がこんなに苦しいのかが分からなくて、誰にも言えず、たびたび昔を懐かしく思う自分に女々しさを覚えた。そんな自分が情けなかった。
「エクスタシー」という言葉を聞いた時、救われたような気持ちがした。
私が虜になり、長年その影を追い続けてきたものの正体が、やっと今わかった。
正体が分かったと同時に、心から安心した。
きっと、エクスタシーってそんなに頻繁に感じられるものじゃないんだ。
だから、焦って追い求めようとしなくても大丈夫。
その代わり、日々出会う小さな幸せを積み重ねよう。
小さな幸せも、積み重ねていく中で生きる糧になるだろう。
そうやって、次いつ遭遇できるかわからないエクスタシーへの憧憬も心に大切にしまっておくんだ。