Kaori’s blog

日々感じたこと、つづっていきます。

大学三年の夏。

 
 
大学3年の夏。
最近になってようやく、ありのままの自分を素直に受け入れることができて、すごく安らかな気持ちと幸せな気持ちで心が満ち溢れている。
 
変化のきっかけは、kokokara東京ツアーで聞いた、あすみんさんのお話だった。
それまでの私は、バレエを失った自分に何の価値も見出せず、「何者か」になろうと必死だった。
 
このままではだめだ。過去の、バレエをやっていた時の自分に負けてしまう。
 
常にそう思っていた。そう思わなきゃって自分に言い聞かせていた。
象徴的だったのは、バレエを辞めてからずっと、バレエを自分から遠ざけていたこと。観たくもなかった。(今の自分の姿に情けなくなってしまうから。)
あと、一時期は「過去の自分にコンプレックス」というのを座右の銘として掲げていた。
 
私にとって、バレエは自分のアイデンティティで、人生の一部で、多くのことを犠牲にして、それでもそれだけを追い続けてきたようなものだった。
バレエがなくなった私は、何になってしまうんだろう。
自分にはなんにもなくなったんだ、という虚無感から抜け出せず、ありのままの自分を受け容れることができなかった。
 
 
バレエを辞めた私は、とりあえず大学には入学できた。
大学にはいろんな人がいたけど、21歳で入学した私自身が一番珍しがられていた気がする。
周りからは異色の経歴について色々聞かれたけれど、その度に「自分ではない誰か」の話を、あたかも自分のことのように話しているような心地がして、気まずかった。
 
色んな事に挑戦してみた。様々なコミュニティに顔を出した。
 
 
そして、大学入学から2年がたって、ふとすべてを辞めたくなった。
 
無理している自分が醜いと感じてしまったからだ。
日々の生活に疲弊してしまっていた。
 
もう、2年間、結構頑張った。
それは、周りの大学生に自分を頑張って合わせようとしてみたり、「何者か」にならなきゃいけないんだと思いつめたり。
色々突き進んでみたけど、なんにも見えなかった。
感動するような景色はあんまりなかったし、というか大学2年間、初めこそ新しい景色にわくわくしたけど、それ以後はずっとおんなじような景色しか見えなかったように思う。
 
どうやら私が大事にしたいものは、その先にはなかったらしい。
 
 
だから、原点に戻って、もう一度違う方向に走り出したい。
今度は、がむしゃらに何かを追い求めるのではなく、まずは自分の心に素直になって、「こっちな気がする...!!」って感じる方向にとりあえず走ってみるんだ。
焦らずゆっくり着実に。そしたら、その道の途中で何か見つかるかもしれない。(あるいは見つからないかもしれない。でもそうだとしても、自分の信じる道を進んでいれば、きっと大丈夫。)
 
いい意味で、今の私は未来に何も期待していない。
これから先、自分が信じる選択ができるように、情報と経験を蓄積し、私の見たい景色が見える道に進む。たとえ道が険しくとも、その道を自分で選び、目指しているなら内なるモチベーションがエネルギーに代わるはず。

エクスタシー中毒だった私。

 

 

「あなたが最もエクスタシーを感じる瞬間を教えて。」

 

そう聞かれたとき、心の奥の方がぎゅっと握られたような感覚がして、私ははっとした。

 

 

あなたにとって、最もエクスタシーを感じる瞬間は何?

 

私にとってのそれは、「共感と刹那」だった。

つまり、強い喜びや哀しみの共有や想起、そして「もうこの瞬間は二度と戻ってこないんだ」という感情で全身が包まれ、我を忘れて浸ってしまうとき。

 

それは、

初めての修学旅行から帰ってきて、夕方、小学校の校庭でりさちゃんと泣きながら抱き合ったあの瞬間。

アメリカでホストファミリーとの別れが永遠の別れのように思えたあの夜。

クララを踊りながら、フィナーレの音楽が始まってしまったとき。

2年半の留学を終えて、日本に帰る飛行機の窓から見たジュネーブの街並み。

そして、全てを捧げてきたバレエ人生にピリオドを打とうと決意したあの瞬間。

 

それは感動という言葉なんかじゃ物足りなくて、まさにエクスタシーだった。

 

はっとした私は、気づいたんだ。

今まで、エクスタシーの虜になり、薬物依存的にエクスタシーを追い求めていたことを。それでも全然見つからなくて、一人ずっと苦しかったことを。

 

私にとってのエクスタシーは、どこにあるの。

何をやっても、「違う、これじゃない。」と思い、そのたびに別の場所へ行き、あらゆるものを試してみた。

その経験は今の私自身を醸成している大切な経験だけれど、エクスタシーとはかけ離れていた。

見つけられず、でも諦めることもできなかった。

よく、夕暮れ時の空を眺めながら過ごしていたのは、今考えると黄昏にエクスタシーを求めていたのかもしれない。

 

 

私は、2015年の夏に初めてスマートフォンを持ち始めたんだけど、本当はスマホに変えたくなかった。ずっとガラパゴス携帯が良かった。

理由は自分でも分からないけど、とにかく流行に逆らいたかった。

どんどん進むIT化に不安を覚えていたし、あえてアナログな生活を求めていた。

(スイスに留学している時期にLINEが流行り出したんだけど、私はずっとLINEをインストールしたくなくて、ついにインストールした時に友達に歓喜されたのを覚えてる。)

 

今考えるとそれは、エクスタシーを味わえるチャンスがどんどん奪われていくのが怖くて、私なりの必死の抵抗だったのだと思う。

だって、スマホを持ってしまったら、いつでもどこでも誰とでも繋がれてしまうでしょう。

私はそれが嫌だった。

 

どうして自分がこんなに苦しいのかが分からなくて、誰にも言えず、たびたび昔を懐かしく思う自分に女々しさを覚えた。そんな自分が情けなかった。

 

 

「エクスタシー」という言葉を聞いた時、救われたような気持ちがした。

私が虜になり、長年その影を追い続けてきたものの正体が、やっと今わかった。

正体が分かったと同時に、心から安心した。

きっと、エクスタシーってそんなに頻繁に感じられるものじゃないんだ。

だから、焦って追い求めようとしなくても大丈夫。

 

その代わり、日々出会う小さな幸せを積み重ねよう。

小さな幸せも、積み重ねていく中で生きる糧になるだろう。

 

そうやって、次いつ遭遇できるかわからないエクスタシーへの憧憬も心に大切にしまっておくんだ。

人間らしさ

 

“テクノロジーのおかげで”生活が成り立つ社会では、人は何のために生きればいいのだろう。

 

「AIやロボットの方が役に立つから、人間はもう働かなくていいよ」

と言われて、やった―!って思える人がどれくらいいるのかな。

 

確かに、お金を稼ぐために嫌々仕事をしている人も、たくさんいる。その人たちは、嫌々やっていた仕事から解放されて嬉しいかもしれない。代わりに、自分が本当にやりたかったことに思いっきり打ち込める。

 

でも、お客さんの笑顔のために頑張る人や、「ありがとう」「おいしい」の声が聴きたくて頑張っている人もたくさんいて、その人たちはなんだかんだ言って仕事が好きなのだと思う。なぜなら、仕事が「自分が自分でいられる場所」であり「他者から認めてもらえる場所」だから。

 

 

これからの時代は、AIやロボットに仕事が譲られていくのだとよく聞く。

「もう私は、誰からも必要とされていないのかもしれない」と感じてしまう人も増えるかもしれない。

自分が何のために生きているのか分からなくなる。

しまいには自分自身の価値さえ否定してしまいそうになる。

 

 

 そんな将来がふと頭に浮かんだ。

 

私たちの存在価値って何なんだろう。

人間らしさって何なんだろう。

 

 

「誰からも必要とされていない」状況をある意味「自由」だと捉えられる人たちもいる。

自分の意思で、自分の進むべき道を選択できることに喜びを感じる人。

彼らには、きっと人生の意義や目標があって、そのために情熱を燃やし続けることができる。 

 

でも、今までの人生、誰かの指示に従って生きてきた人や、ニーズに応えて生きてきた人は、誰も何も言ってくれない状況に不安を感じるかもしれない。

せっかく「自分で選んでいい」環境にいても、何を選べばいいのか分からないし、自分の選択に自信も持てないだろう。

 

 

私もそんな気持ちになることがある。

自分の選択に自信が持てないし、迷いや不安、失敗もたくさんある。

人生上手くいかないことばかりだと感じることも多い。

 

 

 

でも、それこそが「人間らしさ」なのだと思った。

迷い、不安、失敗。上手くいかなくて自信が持てない気持ちを理解できるのは、私たちが人間だからで

だからこそ、そんな時に背中を押してくれるのも、同じ人間なのだ。

 

乃木坂46の「きっかけ」の歌詞の中に、

 

自分のこと自分で決められず 

背中を押すもの欲しいんだ きっかけ

決心のきっかけは理屈ではなくて

いつだってこの胸の衝動から始まる

流されてしまうこと 抵抗しながら

生きるとは選択肢 たった一つを選ぶこと

 

というフレーズがあって、すごく好きなんだけど

ふと誰かがある決断を下そうとした時に、そっと背中を押してあげられるような存在でありたいと思う。

 

そうやって、人が人を励まし合って、皆が自分の進みたい道に自信を持って進んでいけたら、

これからの未来も明るくなるんじゃないかなって思う。

人並みの人生だって、すんごいって思う。

最近思うこと。

誰かの人生を、ばかにしないで。

 

大したことやってないから、人並みだから、って自分を卑下する人は多いけど、

人が一人生きているって、すんごいことなんだって、最近すごく感じてる。

 

自分自身の人生を全うすることって辛いことも多くて、

そりゃ辛いのは私一人じゃないし、私なんかよりもっと大変な思いをしている人もたっっくさんいるのだってわかってるけどさ、

だからって私の心の傷が大したことないなんて、誰にも言えないんだ!!

 

っていう思いを、みんな持っていいんだって思うんだよね。

悲しみや苦しみや、喜びだって、誰かと比べられるようなものじゃない。

 

私も、人並みにつらい経験はいっぱいしてきたけど、

人並みだからって、じゃあ大したことなかったのかって言ったら絶対そんなことない。

すっごく辛くてしんどくて、でも誰にも言えなかった。

そういうことって、みんな、きっとある。いや、絶対にある。

 

それを乗り越えて、今前向きに生きていることを、決してばかにしちゃいけないと思う。

 

別にこんなこと、声を大にして言いたいわけじゃないんだけど、忘れないようにしようってだけ。

同情とかしないし、誰かの知らない過去を勝手に想像しようというわけでもないから。

 

みんなが幸せになる社会って。

悩んでいることがあります。

リーダーって、必ずしも良いことをしてるのかな。

 

最近、学生団体の名を背負って社会に出る場面が多くなりました。

「若者から、よりよい社会を目指していきたいんです!!!」って大人の方々に訴えると、

皆さん応援してくださいます。

 

けど、そうやっていろんな人が知ってくださったり、活動の範囲が大きくなっていくにつれ、不安な気持ちも増していきます。

 

私は、リーダーシップを持った人材の輩出を目指していて、自分自身もリーダーシップを身につけたいと思って、これまで活動をしてきたけれど、

どうも、そんな活動が私の身の丈に合っていない感じがしてくるのです。

私は、独りよがりになっていないかなあ、とか、私のことばで傷つく人はいないかなあって、不安です。

 

リーダーとは、leadする人のことで、周りの人たちを引っ張っていくようイメージがありますが、

社会のスピードに追いついていけないような人たちは、ないがしろにされてしまうのでしょうか。

私は、自分自身が他者をleadするより、追いつけない人たちに手を差し伸べてあげる、もしくは待っていて一緒にゆっくり歩んでいけるような存在になりたいです。

 

でも、今の私は、前へ前へ進もうとしていて、

大切なものを見失っているのではないか、と思います。

あったかさを忘れた、冷たい人間になっていないかな。

効率第一になっていないかな。結果第一主義になっていないかな。

 

何か自分ではない何者かに背中を押されている感じがして、自分の本心ではない感情に駆られている気がして、怖いです。

 

万人受けしたいわけではないし、批判が怖いわけでもない。

だけど、人前に立って、大きな声で主張するのにはやはり勇気が要ります。

 

23歳の若造には、きっとまだまだ知らない世界がたくさんあって、現実の厳しさも知らないし、

そんな私が偉そうに鼻を高くしているだけなのかもしれないです。

 

 

うーん。難しい。

 

 

悩んでいても、仕方ないから

謙虚な気持ちと、コミュニケーションを諦めない姿勢だけは手放さずに、

今はとりあえず進んでいくしかないのかもしれないです。

 

私は、決してリーダーの存在を否定しているわけではなく、ただただ難しいことを実感して気持ちが落ち着かないだけなのですが、

やるだけやって、失敗したら、またやり直す、という気持ちで、今は走っていこうと思います。

 

本当に、思いやりの気持ちに溢れたリーダーがたくさん輩出されたら、素敵なんだけどな。

インタビューを受けました。

こんにちは。

大槌町に来て、一ヶ月が経ちました。

あっというまです。ありきたりな言葉ですが。

 

ボランティアスタッフとして、インタビューを受けたので、

その記事をここに挙げようと思います。

 

【ボランティア体験記】5年半が経った今こそ、必要なボランティアの力。 | 被災地の放課後学校 コラボ・スクール

 

田舎の子供たちって、みんなまっすぐできらきらしているイメージがありました。

間違ってはいないけれど、今では、それって現場を知らない私の勝手なイメージだったなって思います。

複雑な世の中で、子どもたちも生きるのに必死なんだなって感じます。

 

 

問題を解決するためには、しっかり考えて話し合うことはもちろん大切。

でも、現場で実際にぶつかってみないと、本当のことはな―んにもわからないって思いました。

考えるよりも、まず動きたい。

 

これからも、自分の目でしっかりと現実を見ていきたいと思います。

そして、人間であるからには、常に、感じる心を忘れない人でいたいです。

岩手県大槌町に来ています。

 

お久しぶりです。
 
私は今、岩手県大槌町という町に来ています。
2011年3月に起きた東日本大震災で大きな被害を受けた町です。
大槌町の犠牲者率は10.7%。
100人中11人が死者行方不明者となってしまったということになります。
町の7割が流されました。
 
この町に来て、二週間が経ちました。感じることは色々あります。
 
 
言葉にするのは、すご―く難しいです。
 
 
被災地で生活してみて思うこと、教育現場で働いてみて感じること、地方の現状、一NPO組織の内情、、
 
何回かに分けて、投稿しようと思っています。
 
 
 
今回は、被災地に来て、思うこと。
 
 
 
被災地で生活してみて、ふとしたことにも敏感に反応してしまいます。
考えることは山ほどあるのですが、口に出して言うのには、勇気が要ります。
 
 
それは、私が所詮、震災を経験していないよそ者でしかなく、
不注意な発言で被災した方々を傷つけてしまうかもしれないから。
 
でも、よそ者であることを十分に自覚したうえで、伝えたい思いもあります。
 
よそ者なりに、ここで思ったことを伝えていきます。
 
 
 
 
大槌の町を見て思うことは、
 
 
「なんもない。」
 
 
の一言に尽きます。
 
それは、良くも悪くもそうで、今は何も残っていないこの町を見て、
抱く感情は人によって本当に様々なんだと思います。
 
 
晴れた日の大槌町の夜空には満天の星が見えます。本当にきれいです。
 
それも、この町に「なんもない」から。
 
なんだか、「きれい」って言葉を発するのもためらってしまう自分がいるし、
意識し過ぎなのかもって思う自分もいます。
 
 
東北のお土産を、みんなに買って帰ろうと思ったけれど、
そんなお土産屋さんはどこにもありません。
駅すらない、電車すら通ってない町です。
Googleマップには載ってるのですが、復興していないのです。)
週末には映画を見たいなあなんて言ったら、バスで隣の隣の町の駅へ行ってから、
鈍行電車で3時間かけて盛岡に行けばあるよって言われました。
 
 
そんな大槌町ですが、、
 
震災後の5年6か月で、人々の心は色んな方向に変わっていったのだなって思います。
 
テレビやSNSでは、
「被災地復興、一丸となって頑張ろう!」
って言っているけれど、
一丸となって頑張るのって、実はすごくすごく難しいことなのかもしれない。
 
周りが思っているほど、事情は単純じゃなくて、全てが複雑に絡み合っていて、
一人ひとりが深い悲しみを乗り越えて、前を向いて歩こうとしている、
だけど、向かいたい方向は一人ひとり、ばらばらかもしれない。
その一人ひとりが目指している場所への道のりは、それぞれすごく険しいものなのかもしれない。
 
 
そんな状況をちょっと知ったよそ者の私は、「難しい問題ですね...」と言って逃げられるんです。
 
どうしようもない状況の中で、複雑で難しい問題にぶつかってもがいている人たちは、
「難しいから」って逃げるわけにもいかず、無念の中で、結局諦めるしか道はないのかもしれない。
 
 
 
私が被災地に来たいと思ったのは、現実から目を背けたくなかったから。
 
けれど、現実を知った今、苦しんでいる人がそこにいるのに見捨ててしまうくらいなら、
知らない方がましだったんじゃないかって、思ってしまいます。
 
 
 
「結局、当事者じゃないから逃げられるんでしょう?」
 
こんなこと誰も言わないし、
大槌町のみなさんは、「遠くからわざわざ来てくれて、ありがとう」って言ってくれます。
 
「来てくれるだけでも嬉しい」
そう言ってくださいます。
 
そんな言葉をかけてくださる、この町の方たちの優しさに感謝しています。
 
 
最近は、すごく複雑な気持ちでいます。
 
人は、結局自分本位でしか動けないんだなって思います。
 
 
それでも、この町に来て、大槌町の方たちと出会って仲良くなって、
確実に気持ちの変化はありました。
 
私にできることがあるなら、ほんの少しだけど、力になろうって思います。
 
 
ここに来るまでは、私は大槌町とは無縁の場所で生きてきたし、
震災後の報道にショックを受けながらも、本気で力になりたいとは思えていなかったと思います。
 
 
誰かの力になりたい、って、私の場合、漠然と何かに思うものじゃなくて、
人と人の生の交流の中で生まれるものだと思いました。
 
手を差し伸べたい、助けてあげたい、そう思えるのは、
助けを求めている誰かの顔が頭に思い浮かんだ時。
 
 
今更ながら、人と人の輪って大切だと思いました。
 
まだこっちに来て2週間。
毎日の出会いを大切に。。
 
 
 
最後に大槌町の写真をいくつか載せます。
 
 
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↓仮設校舎(小中学校)

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↓旧庁舎(被災した状態のまま残されています。)

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